映画「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
シリーズものの作品を読む時は、1巻から読み始めるのが普通ですよね。
なぜか私は、1巻から読んでみたものの最初の1~2章が遅々として進まず
試しに2巻を読んでみたらすぐに読み終えてしまい、1巻に戻って読破する、と
いうことがよくあります。
この場合、3巻以降は1巻を読了してから読むので、読んだ順番は2→1→3・・・です。
当然、2巻ですから1巻の出来事が書かれている部分があり、
はじめて読む私からすれば「何のこっちゃ」状態なのですが、
これが意外と気にならないのです。
・・・・・・やっぱりおかしいのでしょうか?
「『ハリー・ポッター』シリーズで何巻が好きですか?」と聞かれたら
「ダントツで3巻です」と迷わず答えます。
このシリーズ作品も2→1→3の順で読んでいました。
1巻を脇に放り、適当に開いた2巻のページを流し読みをしていた私ですが、
気づけば夢中になっていて、読み終えたらすぐに1巻に取りかかりました。
当時の私は本が好きで他にもファンタジー作品は読んでいましたが、
この作品を読んだ時、他の作品とは全然違う、と衝撃を受けました。
「ファンタジーなのに、ハリーは自分と同じ、生きているただの男の子みたい」
あまりの衝撃にびっくりしましたし、覚えている限り本屋で予約して
発売を心待ちにした作品は、これがはじめてでした。
そして届いた第3巻「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
もう、夜も眠れません。
面白すぎて家の中を本を小脇に抱えて歩き回る始末。
食事中も本を自分の真後ろに置いておき、ちらちら横目で眺め、
隙あらばぺらっとめくっては「行儀が悪い」とたしなめられました。
しかし、そんなことでは堪えません。
布団に入るぎりぎりまで読み続け、
布団に入った後は懐中電灯を持ち込んで読み進め、
時折家人が部屋の前を通る時は灯りを消して寝たふりを決め込みます。
そして寝不足のまま、翌朝ランドセルに本を突っ込むのでした。
”「われ、ここに誓う。 われ、よからぬことをたくらむ者なり」”
J. K. ローリング 著
松岡佑子 訳
2004年
アルフォンソ・キュアロン 監督
リアルタイムで作品を読んだ当時は、「逆転時計(タイムターナー)」が最高に
魅力的な魔法道具に思えました。
過去をやり直せるなんて!
昨日のテストをもう1回やらせて!!
ところがこの年(アラサー)になるともう、やり直したいことは山のようにあり、
いちいち戻る気にもなれません。
と、いうことで改めて読み直すと、欲しくなるのは「忍びの地図」です。
「透明マント」も捨て難いけど、自分が幽霊になってしまったようでちょっと嫌。
主人公:ハリーが手に入れた地図は一見何も書かれていない紙ですが、
合い言葉によってその真価を現し、
学校の詳しい地図と誰がどこにいるのかを示してくれます。
地図があってもなくても道に迷う私が魔女だったら、
広大すぎて誰にも把握できない魔法の城で過ごすには、
このくらい親切な地図がないと不安です。
「透明マント」も「忍びの地図」も共に、ハリーの父親に由来する品です。
ハリーは両親の遺品を持たずに伯母の家に預けられましたが、
魔法使いの道を進むにつれて
かつて父親が手にしていた品々が人づてにハリーの元へ集まります。
「忍びの地図」は「透明マント」とは異なり、
ハリーに譲られる謂れもなく、親友のお兄さんたちから好意で譲られます。
もし「忍びの地図」が同じ魔法の地図でも
開いた瞬間に堅苦しい言葉を告げたり、呪詛めいた言葉で脅してきたら、
ハリーはここまで地図を信用せず、真実にはたどり着けなかったと思います。
親友のお兄さんたちだって有用性は認めても愛着は湧かなかっただろうし、
呪いの魔法がかかっているかも、と思えばハリーに譲ることをためらったでしょう。
作品には作り手の心が宿ります。
それがユーモアだったら、受け手も思わず笑顔になってしまいます。
そして受け手が意図せず自分の息子だった、なんてことは
魔法のないこの世界でも十分起きうるのだと思うと、
ちょっぴり笑顔になりませんか?
【映画のキーワード】
#ファンタジー #冒険 #バタービール