ディズニー・アニメ映画「ふしぎの国のアリス」
”あ、あ、あの、あまりよくわかんないんです、いまのところ――少なくとも、
けさ起きたときには、自分がだれだったかはわかってたんですけど、
でもそれからあたし、何回か変わったみたいで
(中略)
はい、自分の言いたいことが言えないんです。
だってあたし、自分じゃないんですもん”
書籍「不思議の国のアリス」
ルイス・キャロル 著
山形 浩生 訳
映画 " Alice in wonderland "
1951年
クライド・ジェロニミ/ハミルトン・ラスク/ウィルフレッド・ジャクソン 監督
デイズニー・アニメ映画の中で、子どもの頃の私が見られなかったのは、
「白雪姫」と「不思議の国のアリス」でした。
本当は「ダンボ」の例のシーンも怖かったのだけれど、あれはどちらかというと
怖くても見たくて、見ている内に怖くなくなるので問題ありませんでした。
その代わり、散歩している時にふと視界の片隅に思い出してしまい、
ぎょっとすることもあったなぁ。
そのため「不思議の国のアリス」を見るために私は、
怖いシーンを「吹っ飛ばすっ!」ことにしていたのを覚えています。
当時はVHSが主流で、怖いシーンが始まる時間を覚えて早送りしたものです。
でも失敗して「ギャア!」と叫んでテレビの前で飛び上がることもしばしば。
そのくらい怖かったので、今回ブログを書くにあたって久々に見たら
どんなに怖いだろう、と身構えていたのですが、拍子抜けするくらい
あっという間に終わってしまいました。
大人になったのかしら。
いやね、不感症?
高校生の頃、原作を読む機会があり、その時も身構えました。
「『牡蠣』の話がでてきたら、飛ばそう」と思うくらいには、まだ怖かった。
でも、原作には出てこないのです、「セイウチと大工」の話は。
幼い私を恐怖のどん底へと突き落とした、怖~いお話は。
それが原因かはわかりませんが、大人になった今でも私は牡蠣が食べられません。
まあ、それはおいといて、ディズニー・アニメー映画「不思議の国のアリス」は
「鏡の国のアリス」も混ざっています。
したがって、片方だけ読むと「アレ? 双子は出てこないの?」となるし、
全然登場しなかったグリフォンや公爵夫人が出てきて「誰これ」となってしまう。
「不思議の国のアリス」の面白さがどこにあるのか、を考えると、ズバリ、
「登場人物の行動に理由がない」という結論にたどり着きました。
もしくは、「行動理由に共感できない」でもよし。
「誰が」「何のために」「何をした」は、文章を作る上で重要な要素です。
この作品に登場する人物たちの行動には、「何のために」が不明な場合が多い。
というか、ほぼありません。
皆がやることなすこと、一切合切何の目的もないから、この作品はナンセンス
文学だなんて呼ばれています。
「意味のないお話」、それが「不思議の国のアリス」
意味がないということは、教訓がないということ。
この話は確かにキリスト教の根付いた街で暮らすキリスト教徒の作者によって
書かれているけど、世界中の人が虜になるのは、この話に宗教・風習・道徳を
感じさせないところがあるからかもしれません。
どの時代も美徳とされることがあり、世代を経て変わらないものもあるけど、
案外多くのものは変わっていっている。
今日の結婚式を見ればわかるように、礼儀だのマナーだの言っても、
10年単位で様式がころころ変わり、まあ目まぐるしいったら!
自分が生きた時代と切り離して創作するのは至難の業だけど、
これは成功している、と感じます。
読んでいる時に、アリスが自分よりもうんと前の世代の人間だと感じることが
ありません。
何なら、自分も一緒に船に座って話を聞いているくらいに感じられます。
読者を物語の世界に引きずり込むには、どれだけ時代の匂いを感じさせないか、
はそれほど重要ではなく、どれほど読者に自らの身に置き換えて空想させる余地が
あるか、が重要でしょう。
読んだ人間は、空白になっている「何のために」を勝手気ままに埋めていく。
答え合わせをしようにも、誰にも正解はわからないから、百人いれば百通りの
アリスが生まれてしまう。
そのこと自体は当たり前だけど、アリスを通してお話を読者が創作できる、
というのは「不思議の国のアリス」ならではの醍醐味だなぁ、と思いました。
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