映画「クレイマー、クレイマー」
”もっと違った人生とかよりよい人生などありえないのだ、とテッドは思った。
生きることはそんなに単純なことではない。
事故だってたまには起こる。
ビリー、ビリー、あのとき倒れかかったおまえを抱きとめてやりたかった。”
書籍「クレイマー、クレイマー」
エイヴリー・コーマン 著
小林宏明 訳
映画"Kramer vs. Kramer"
1979年
ロバート・ベントン 監督
フレンチトーストが突然食べたくなったら、どうしますか?
あれって、前日の晩に卵液にパンを浸しておかないと、
中まで味がしみこまないんですよ。
したがって朝起きて、寝起きのぼ~っとした頭で
「あー、フレンチトースト食べたーい。メープルシロップたっぷりめで」
と思っても、それは無理な話なわけ。
でもこの映画のように、大して漬けずに卵液をパンにまとわせただけで
焼いたとしても、それは好みの問題であって、
確かにこれもフレンチトーストに違いないわけです。
出来上がりの様子が映されないからわからないけれども、
クレイマー家のフレンチトーストは、しっとり系ではなく、
パンの食感を残したい系なのでしょう。
妻に愛想を尽かされた男が一人息子の朝食につくるフレンチトーストで
有名なこの映画「クレイマー、クレイマー」
原題では「クレイマー対クレイマー」となっており、
息子の親権をめぐって元夫婦:テッドとジョアンナが対立する様を
表わしています。
一度は愛し合って結婚した夫婦が、互いの傷をえぐりあうように争い、
自らこそ息子の親に相応しいことを証明しなければなりません。
当然、どちらも無傷ではいられません。
悲しみと疲労に彩られた2人の顔は、よく似ていました。
醜い争いです。
でも、使えるものはすべて使わなくては、法廷で勝つことはできません。
裁判の結果、「子供の利益を最優先する」という法律原則に基づき、
裁判所は母親に親権を与えます。
絶望する父親。
父親の雇った担当弁護士によれば、父親が幼い子供を母親から
奪い取るのはもの凄く難しい、とのこと。
母性の勝利、ということです。
もし自分が幼い子供で、両親が離婚したとしたら、
どちらと一緒に暮らしたいと思うか想像してみました。
答えは、断然、母親。
いや、まァ、コザクラの家庭の話ですし、妄想の話ですよ。
でも、アンケートをとったとしたら、五分五分になるとは思えないんですよね。
感覚的に、母親派が過半数を獲得する気がします。
想像ではなく、本当にそういう境遇の子供たちにアンケートをとったとしても
やはりそうなるのではないか、と思います。
そこでもうひとつ、想像してみました。
もし自分が幼い子どもの父親で、妻と離婚した場合、
子どもの親権をめぐって、どのように法廷で争うのか。
妻と子どもの関係性が気になりますが、そこが良好だとして、
かつ自分と子どもの関係性も同じくらい良好だったとします。
いや~、難しいですね。
勝てる気がしない。
育児自体は、母親と同じことができるでしょう。
母乳による授乳は無理ですが、粉ミルクをつくることに男女の差はありません。
でも、何を言っても、何をやっても、父親である「わたし」は
母親の大仕事:出産の前にかすんでしまう気がします。
子育てが平等でも、出産は不平等です。
生命の誕生に男と女が必要だとしても、
妊娠中にどれだけ男が女をサポートしたとしても、
自分の腹の中で命を育む行為は女にしかできません。
その不平等が、子どもの親権問題において
ほぼ絶対的なまでに強烈な優位性を示しているのでしょう。
まァ、我々ほ乳類なんで、オッパイには負けますよ、はい。
ふと思ったのですが、現在では代理出産という方法もあります。
日本国内では認められていませんが、
国外では不妊治療として、すでに産業化されているところもあります。
もし現在で同じテーマを扱うなら、
代理出産で生まれた子どもの親権をめぐる問題に描き直したら
面白いだろうな、と思いました。
そうすれば今度は正真正銘、2人の人間の対決になると思います。
性別による偏りを排除して、法廷に立つ人間ひとりひとりに
向き合えると思いませんか?
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