映画と本の感想ブログ「映画の本だな」

いつかディズニー映画を英語で観るために頑張るブログ。

映画「ねじれた家」

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映画「ねじれた家」

 

”「おまえはいいことを考えている。殺人犯人を身近に感じることが大切だよ。

 離れて見ていては駄目だ」”

書籍「ねじれた家」

アガサ・クリスティー 著

田村隆一

 

映画"Crooked House"

2017

ジル・パケ=ブランネール 監督

 

 映画を視聴した後で気付きました。

ジャケットが……ネタバレ(笑)

ジャケットに並ぶ女性陣は、全員「ねじれた家」に住んでおり、

この家で起こった殺人事件の容疑者として疑われています。

背後の男性2人は主人公の探偵と捜査にあたる主任警部なので除外します。

ジャケットに載っていないだけで「ねじれた家」には他に4人の男性も

一緒に暮らしています。

 何も知らずにジャケットで映画視聴を決めた人なら、

「この映画は女系一族の争いの話だな」と思いそうなものです。

それと同時に、「犯人はこの中の誰かだろう」とも。

 真実、女性陣の中に犯人がいますから、これでは他の男性陣が

最初から容疑から外されてしまい、ネタバレになってしまいます。

なぜ男性陣を除いてジャケットを制作したのか、謎が残ります。

 

 あらすじ紹介だと本作はクリスティーお得意の童謡殺人として紹介されています。

しかし、実際には題名にマザー・グースの一節がとられているのであって、

殺人事件や物語自体は童謡とはからめられていません。

構造上不可解な建築物が登場するわけではありません。

 つまり、「ねじれた家」とは象徴なのです。

 自らの家を「ねじれた家」と呼んだソフィアは、

毒殺された館の主を祖父に持つ二十代の女性です。

戦争や経済的な事情で血族が一つ屋根の下に暮らし、

社会的に成功した一角の人物である祖父の保護を受けている状況。

そして、そこで暮らす人々の性格的な欠点とある種の過剰さを

冷静に見つめた結果、彼女は自らの家を「普通でない」と否定的に

述べる代わりに「ねじれた家」と呼んでいます。

 祖父譲りの明晰さを持つ彼女は、祖父の死について調査するために

探偵:チャールズに協力を求めます。

この辺は映画化にあたり変更がされており、映画では私立探偵ですが、

原作ではロンドン警視庁の副総監を父に持つ一般人です。

ソフィアとの関係も、映画では元カノですが、原作では結婚を視野に

お付き合いをしており、それに先だって祖父の死を解決して

2人の結婚にスキャンダラスな噂がたたないように、と苦慮しています。

 こう言っちゃなんですが、映画のチャールズは探偵役としては

やや頼りがいに欠ける印象です。

原作通り、婚約者の付き添いで事件現場をうろうろ歩き、

本職の父親と推理を深め合っている方が、素人の探偵ごっこという感じがして、

応援のしがいもあるというものです。

 

 推理小説においてトリックは最重要課題ですが、

クリスティー作品においてはそうではありません。

事件によって明らかになる人間関係の妙が、彼女の作品の醍醐味なのです。

 殺害方法は最初から提示されています。

ジャケットからもれた4品の男性を含め、一家の全員に可能性があります。

したがって、動機から殺人犯人を推理していきますが、

探偵も家人も警察関係者も驚くほどに内部の犯行を信じ切っています。

館の主の経営手腕は法律スレスレで何度も危ない橋を渡り、

裏家業用の弁護士まで用意していただろうことまでわかっていながら、

恨みを買った第三者の犯行だとは露とも思っていません。

 この辺りが、ソフィアの表現した「ねじれた家」たる所以だと思います。

 お互いのことしか見ていない――疑心暗鬼になるばかりです。

それなのにお互いのことを客観視していない――嫌いなあいつが

犯人だったらいいのに、という先入観を捨てきれません。

そしてチャールズもねじれた思考にとらわれ、最後のタネ明かしまで

先入観を捨て去ることができませんでした。

 激しい愛憎の感情は、殺人事件の動機としてありきたりなものです。

でもこの作品が際立っているのは、フィクションでお馴染みの役柄や

人物像ではなく、物語の登場人物として創作されたにも関わらず

ぎょっとするほど化け物じみた人間味のある人物像のおかげだと思います。

 「ねじれた家」に住む「心のねじれた人」たちにとって、

これが本当にいい終わりでありますように。

 

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