映画「メアリーの総て」
”おぼえておいてくれ、おれはおまえがつくったものなのだから、
おれはおまえのアダムにあたるわけだが、おれはむしろ、
罪もないのに歓喜から追いだされた、墜落天使のようなもので、
いたるところに幸福があるのに、おれだけがきっとそれからしめだされるのだ。”
書籍「フランケンシュタイン」
メアリー・シェリー 著
山本政喜 訳
映画"Mary Shelley"
2017年
ハイファ・アル=マンスール 監督
古典文学作品が、知名度の高さに比べて、実際の読者数が少ないのは、
書籍を介して知り得るよりも早く、ヴィジュアルで知り得てしまうからでしょう。
人参ほどありそうな太い1本のネジを首もしくは頭に突き刺した、
つぎはぎだらけの大男――それがフランケンシュタインだと思っていませんか。
コザクラもこの映画を観るまでは「フランケンシュタイン」という名前が、
死体をつなぎ合わせてつくられた怪物の名前だと思っていました。
しかしその名前は怪物の名前ではなく、創造主たる科学者の名前であり、
創造物たる怪物は科学者から名付けられることなくその一生を終えます。
名無しの怪物の生みの親、メアリー・シェリーの人生を、
1冊の本が世に出るまでに焦点をあてて描いたのが、
今回の映画「メアリーの総て(すべて)」です。
フランケンシュタインを取り上げた映画は数多けれど、
怪物ではなく著者に全面的に光をあてた、伝記映画のひとつです。
生と死の謎は、今を生きる私たちにとってもなじみ深いものです。
死ぬってどういうこと?
生きているって何?
科学が発達すると、その有用性や信憑性が裏付けされるにつれて、
宗教に代わって世界の謎のひとつひとつに答えを求められるようになりました。
今も昔も決して万能ではない科学で説明のできない事象の一つが、
「いのちとは何か」です。
その答えを得て、生命そのものを生み出すことに成功した
科学者:フランケンシュタインは、若さゆえの熱情のままに研究に没頭し、
自らの理論通りに理想的な生命体を創造します。
しかし、出来上がった生物のおぞましい風貌に恐怖した彼は、
近寄る生物を振り払って別室へ逃げ込み、
自らの短慮な行動を激しく後悔します。
生み出された生物は創造主の手を離れ、人間並の幸福を得ようとしますが、
人間の姿を模してはいるものの、全く別の生物であるがゆえに恐れられ、
それを理不尽に感じて、段々と人間に対する恨みを蓄積させていきます。
引用文は、創造主に対する怪物の恨み言です。
科学者は自ら生み出した生物を慈しむことなく逃げだしました。
生み出したことすら後悔された怪物は、
「創造主に見捨てられた創造物を他に慈しむ者がいるだろうか」、
と問いかけています。
――お前の他に誰が自分を愛してくれるというのか、と。
映画の冒頭で、墓地でホラー小説を読みふけるメアリーは、
誕生と共に母親を失っており、
彼女の一番近くの墓石には母親の名が刻まれています。
自らの命と引き換えに母親を失ったように感じていたメアリーは、
その後、駆け落ちして自分の家族を手に入れます……が、
生まれた娘を早くに亡くし、悲しみに暮れます。
近しい者たちの死が、彼女に「フランケンシュタイン」を書かせたのだとしたら、
創造主を失って途方に暮れる怪物は彼女自身ということになります。
幼い頃より継母と暮らし、家庭に居場所を見つけられなかった彼女が
結婚相手に選んだ相手には妻子がいました。
自らが宿した命はまだ幼い内に失われ、暗い部屋には彼女一人が残されました。
どこにいても根を張れない草のわびしさが
メアリーと怪物の両方に共通していると感じられます。
映画の中では、出来上がった小説を読んだ義妹がメアリーに、
怪物の怒りに共感した、と感想を伝えています。
小説の中の怪物は、創造主への憎悪から殺人を犯しており、
同情だけでは片付けられない、怪物自身の凶悪性というものがあります。
それでも義妹をはじめとする私たち読者が、
怪物を敵役として憎む以外に哀れで惨めな存在だと思うのは、
「愛してほしい人に愛されなかった」記憶を大なり小なり皆が持っていて、
そこに共感しているからかもしれません。
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